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Biography 1980年代

1980

R.E.M.誕生

 1980年4月5日。 カレッジラジオDJ、Kathleen O'Brienの誕生日パーティで、Twisted Kitesという結成したてのバンドがThe Side Effectsと共に演奏を行った。 このTwisted Kitesというバンドは、数日後にR.E.M.と名前を変え、地元ジョージア州Athensを中心にライブ活動を始める。 ここから、R.E.M.の歴史は始まった。

 

 メンバーは、R.E.M.を結成したと同時に、地元Athensを中心にライブ活動を開始する。 R.E.M.の人気は凄まじく、結成から1ヶ月そこそこ、たった4回目のライブで、AthensのライブハウスTyrone's O.C.のヘッドライナーとして350人ものオーディエンスを集めることに成功している。 Athensで最も人気のあったPylonですら100人程しか集まらない状況においては、快挙であり、同時にAthensで最も人気のある地位に上り詰めた事を意味している。 そして、この年の12月には、当時かなり勢いのあったThe Policeの前座を務め、AtlantaのFox Theaterで4000人を前にプレイした。

1981

デビュー

 1981年になっても、引き続きライブ活動で下積みを重ねていたR.E.M.だが、その活動の中で、ノースカロライナ州Winston-Salem出身のパワーポップバンドThe dB'sと知り合うことになる。 The dB'sとは、この後もR.E.M.とはしばしば活動を共にすることになるのだが、そのThe dB'sの中心的メンバーのPeter Holsappleは、R.E.M.にMitch Easterを紹介する。

 Mitch Easterは、同じくノースカロライナ州Winston-Salem出身の人物で、元々The dB'sの前身となるバンドSneakersで、The dB'sのChris Stameyらと共にバンドを組んでいた人物。 Mitchは、1980年に実家のガレージを改造して作った Drive-In Studio を開業しており、早くそこを使ってレコーディングをしたいと考えていた。 一方、R.E.M.はSmyrnaにあるスタジオBombay Studiosで、スタジオオーナーのJoe Perryに依頼し、ある程度本格的なレコーディングを行い、デモテープを作ったりしていたが、かなり出来が悪く、こんな音源を配ってしまっては、かえって害になるということで、行き詰まっていた。 そんな状態のR.E.M.は、Mitchにはピッタリな存在だったのだろう。

 Mitchの明るい性格に、R.E.M.とMitchはすぐに打ち解け、早速Drive-In Studioにてレコーディングを開始する。 その音源を収録したデモテープを、アートワーク付きの作品としてプロモーション用に作成した。 その手作り感溢れるデモテープが、R.E.M.の最初の作品 Cassette Set である。 Cassette Set は、合計400本作られ、そのうちの100本には、Mitchが後日勝手に作った Radio Free Europe のダブミックスが収録されていた。

 

 その頃、Atlantaでインディーズレーベル Hib-Tone を立ち上げたばかりのJohnny Hibbertは、デビューさせる新人バンドを探していた。 Johnny Hibbertは、自身がミュージシャンでもあり、自身のバンド The Incredible Throbs のメンバーとして活動していた。 当初、The Incredible Throbsの作品をリリースしようと考えていたHibbertだったが、その活動は上手くいっておらず、The Incredible Throbsは解散の危機に瀕していた。 Atlantaではデビューさせたいバンドが見つからなかったHibbertは、Athensにまで足を運び、新人バンドのパフォーマンスを聴いて廻った。 そこで、R.E.M.のパフォーマンスを目の当たりにし、興味を持ったHibbertは、バンドにデビューの話しを持ちかけた。 こうして、彼らはデビューシングル Radio Free Europe を、Hib-Tone一作目の作品としてリリースする。

 Johnny Hibbertは、自らMitchがDrive-In Studioでレコーディングした音源を元に、ミックスとオーバーダブを施し、リリースに向けての準備を行った。 一方、Mitch Easterは、オリジナルバージョンに忠実に、ミックス作業を再び行っており、ここに2バージョンの Radio Free Europe が誕生する。 そして、どちらのシングルを起用するかを審議し、よりキャッチーなJohnny Hibbertのバージョンに一度は決定した。 しかし、R.E.M.自身(特にPeter Buck)はMitchのバージョンを気に入っており、結局はMitchのバージョンがシングルとしてリリースされることとなった。 Johnny Hibbertのバージョンは完全にお蔵入りとなってしまったが、Mitchのバージョンは、後に Eponymous や、I Feel Fine: The Best Of The I.R.S. Years 1982 - 1987 のボーナスディスクにも収録された。

 

 このような出来事だけではなく、Hib-ToneはR.E.M.のメンバーにとって非常に不利な契約を交わしていたことが判明する。 この後R.E.M.の弁護士兼マネージャーとしてずっとR.E.M.をサポートし続けるBertis Downsの助言により、R.E.M.自身の会社R.E.M./Athens, Ltd.を設立する。 R.E.M.は、たった一枚のシングルを残し、Hib-Toneを後にした。

1982

I.R.S.と契約。5曲入りEP Chronic Townをリリース

 Hib-Toneを抜けたR.E.M.は、The PoliceのドラマーStewart Copelandの兄弟であるMiles Copelandが設立したA&M傘下のレーベル International Record Syndicate(通称I.R.S.)と契約。 早速、I.R.S.からのデビュー作となるミニアルバム Chronic Town をリリースする。

 プロデューサーは、再びMitch Easterが手がけることになり、始めのレコーディングは、再びDrive-In Studioで行われた。 Chronic Town に収録されている Carnival Of Sorts (Boxcars) はDrive-In Studioでレコーディングされたものである。 その後、NewYorkのRCA Studioに移動し、残りのレコーディングを行っている。 しかし、1,000,000Stumble は、1981年10月に、Wolves, Lower は1982年1月に、それぞれDrive-In Studioにてレコーディングが済んでおり、RCA Studioで収録されたものは、主にオーバーダブや、ミックス用の素材として使われたようだ。

 Chronic Town では、Michael Stipeのヴォーカルスタイルが、後にマーマーヴォイスと呼ばれるボソボソと呟くような歌い方に変化した。 この歌い方は、1985年まで続き、初期のR.E.M.の象徴になっている。 その怪しげなマーマーヴォイスに加え、不気味なイントロからMichael Stipeのシャウトから始まる Wolves, Lower や、ホラー映画の効果音のような出だしの Carnival Of Sorts (Boxcars) など、摩訶不思議で、奇妙な作品に仕上がっている。 そもそも、曲名も意味不明なものばかりが揃っている。 何の数字か解らない 1,000,000 や、「夜のガーデニング」、「カーニヴァル辞典」、「過失」、「狼、さらに低い」など、訳しても全く何のことか不明である。 歌詞が聞き取れない上に、曲名が意味不明という、難解な作品として仕上がっているが、これがこの後暫く続くR.E.M.初期のスタイルである。

 

 アルバムタイトル自体、「慢性病の町」という陰気なタイトルであり、アルバムアートワーク自体、ダークブルーのガーゴイルの写真を使った陰気なものだった。 ジャケット裏面に入っているメンバーの写真も、浮かない表情をしていて、作品の内容を良く表している。 また、レーベル面の表記を見ると、A面には「Chronic Town(慢性病の町)」、B面には「Poster Torn(引き裂かれたポスター)」というタイトルがそれぞれ付けられている。 R.E.M.は、この後の作品にもA面B面にタイトルを付けてリリースしている。

 

1983

ファーストアルバムリリース

 デビューシングル Radio Free Europe から2年経ち、ようやくR.E.M.はアルバムをリリースすることとなる。 これまでと同様に、Mitch Easterがプロデューサーを務めることになったのだが、今回はフルアルバムだということもあり、ノースカロライナのガレージバンドArroganceのメンバーだったDon Dixonに共同プロデュースを依頼した。 結果、ファーストアルバム Murmur はMitch EasterとDon Dixonが共同でプロデュースを行うことになった。 レコーディングは1983年の1月〜2月の約2ヶ月間、ノースカロライナ州CharlotteにあるReflection Sound Studioで行われた。

 アルバムには、Hib-Toneからのデビューシングルだった、Radio Free Europe と、そのB面であった Sitting Still が新バージョンで収録された。 デビューシングルや、Chronic Town の頃と比べると、全体的に音が丸く控えめに変化した。 そして、初めてのバラード曲 Perfect Circle や、スローテンポの子供っぽい We Walk など、明らかに曲のバリエーションが広がっていた。

 アルバムからのファーストシングルは、デビューシングルと同じく Radio Free Europe が選ばれていた。 このシングルでは、初めてU.K.とHolland版が作らることとなり、これが初のヨーロッパ進出となった(アルバム Murmur のリリースは、US版から4ヶ月遅れた8月)。 その後、Talk About The Passion がU.K.でのみリリースされ、このアルバムからのシングルカットは、2曲となった。

 

 アルバムリリースの直後、同じI.R.S.在籍のバンドThe English Beatの前座としてツアーに参加。 積極的なライブ活動を始めている。 その後も休む暇も無く、Mitch Easter自身のバンドLet's Activeを前座に迎え、自らのツアーを続け、夏にはThe Replecementsを前座にツアーを廻っている。 そして、8月には当時物凄い人気だったThe PoliceのSynchronicity Tourの前座に参加し、スタジアム級の会場で演奏した。 その中でもニューヨーク州FlushingのShea Stadiumでは、約67,000人を前に演奏を行った。 その後も休む間も無く自身のツアーを続け、11月には初めてのヨーロッパ公演を行い、イギリスではテレビ番組 "The Tube" でも演奏を行っている。 その一部の映像は、2006年にリリースされたベストDVD When The Light Is Mine: The Best Of I.R.S. Years 1982 - 1987 に収録されている。

 アルバムは、翌年の始めに発表された、音楽誌 Rolling Stoneの専門家の投票による評価で、U2の War、The Policeの Synchronicity、Michael Jacksonの Thriller を抑え、見事Best Album of 1983に選ばれた。

1984

セカンドアルバム。そして初来日。

 1983年の12月から、2枚目のアルバム Reckoning のレコーディングが始まり、1月にはレコーディングを終了した。 実際には凄いスピードでアルバムをレコーディングを行っていたらしく、実質、2週間程でレコーディングを済ませ、長く抑えていたスタジオの予定をキャンセルする程だったという。 アルバム制作期間の約2ヶ月間の殆どを、ミックスやオーバーダブに時間を割いていたと思われる。 レコーディングは前回に引き続き、Mitch EasterとDon Dixonの共同プロデュースにより、Reflection Sound Studioで行われた。

 ライブでは激しいパフォーマンスを行っていたR.E.M.だったが、前作 Murmur は、それとは違う、おとなしい印象の作品に仕上がっていた。 今回のアルバムでは、ある程度ライブの勢いをアルバムでも表現したかったメンバーは、スタジオライブに近い方法でレコーディングを行った。 Pretty PersuationSecond GuessingLittle America などは、特にその効果が現れていて、激しく生々しい曲に仕上がっている。 このアルバムからは、So. Central Rain (I'm Sorry)(Don't Go Back To) Rockville の2曲がシングルカットされた。

 アルバムが完成してから、ツアーに出るまでの時間、Michael Stipeは、アルバムアートワークの制作に取り掛かった。 Reckoning の印象的な蛇の絵を使ったジャケットの原案は、Michael Stipeがスケッチし、AthensのアーティストのHoward Finster(Radio Free Europe のビデオにも登場する)がペイントした。 そこまでは良かったのだが、ジャケット裏面の作り込みがあまく、無造作にメンバーの写真を配置した、雑な作りになっている。 Michael Stipeは原案までしか携わっておらず、完成したジャケット全体は気に入っていなかったようである。

 

 その頃、他のメンバーは、デビュー当時のようなバーバンド的な活動をしたいと考えていた。 そこで、Bryan CookとWarren Zevonを迎え、Hindu Love Godsを結成する。 Hindu Love Godsは、Warren Zevonの曲や、古いカバー曲、NarratorPermanent Vacation など、デビュー前の曲でリリースしていないR.E.M.のオリジナル曲をライブで披露した。 Hindu Love Godsは、この後活動を一旦停止するが、1986年には、デビューシングル Gonna Have A Good Time Tonight をリリースする。

 

 そんな活動があった後に、R.E.M.は再びワールドツアーに出かける。 今回のツアーは、R.E.M.のツアーとしては初めて、Little America Tour とタイトルが付けられた。 まずは、春にヨーロッパを巡り、夏から秋まで北米を廻り、その後、初めてとなるハワイ公演を済ませた後、ついにR.E.M.は初の来日公演を迎える。

 来日公演では、爆風スランプを前座に、横浜国立大学や早稲田大学の学園祭を中心に行われた。 やはり日本ではまだR.E.M.は無名であり、当然のことながら、オーディエンスの殆どが爆風スランプ目当てだった。 しかし、R.E.M.はデビュー当時、そんな状況の場数は踏んでいたため、見事に熱い演奏をやり切っている。 来日の後は、再びイギリスを中心にヨーロッパを巡り、最後にAtlanta公演を大晦日に行って、この年の活動を終えている。

 R.E.M.がライブに明け暮れる中、R.E.M.ファンクラブが、設立された。 設立当初は、恒例のクリスマスシングルは無く、ファンクラブ会報が発行されたのと、ファンクラブ会員のためのグッズ販売が行われた。

 

1985

初めてのイギリスレコーディング。

 1985年の2月には、Londonに渡り、初のイギリスでのレコーディングに入った。 これまでの作品のプロデュースを行っていたMitch Easterは、自身のバンド Let's Active の活動が忙しくなったため、今回は1960年代から音楽プロデューサーとして活動していた、ベテランプロデューサーのJoe Boyedが携わった。

 既にアルバムに収録される曲の幾つかは、1984年のツアーで出来上がっており、慣れない土地、合わない食事、度重なる疲労、初めてのプロデューサー変更などが原因となり、メンバーのコンディションはデビュー以来最悪となった。 レコーディングを途中で止め、Athensに帰ることや、最悪バンドの解散を考えるところまで深刻な状態に陥っていた。 更に、レコーディングが終わった後すぐ、Pre-Construction Tourと称したアルバムリリース前のUSプロモツアーに出かける。 特にダメージを負っていたMichael Stipeは、額に「DOG」と書いてステージに上がったり、頭のてっぺんの毛だけを剃った異様な髪型でツアーを続けるなど、コンディションの悪さを体現していた。 そのような、メンバーの劣悪なコンディションとは裏腹に、アルバム Fables Of The Reconstruction はあっさりと前作 Reckoning を抜き去り、リリース後たった3週間で30万枚以上のセールを記録した。

 

 Fables Of The Reconstruction は、ジャケットに書かれているタイトルは Fables Of The Reconstruction Of The と、繰り返す名前が付けられていた。 また、LPのジャケットは、表と裏の配置がちぐはぐになっていたり、ジャケットには全く曲目が書かれていなかったりと、不可解な造りになっている。 アルバムの中身も、1曲目の重く不気味な Feeling Gravitys Pull の印象が強く、アルバム全体が陰気で意味不明な感覚が印象として残る。 これまで絶賛してきた各音楽雑誌も、今回は違っていた。 しかし、キャッチーでアップテンポな Can't Get There From Here や、比較的聴き易い Drive 8 は、ラジオでしつこい程流れ、 Can't Get There From Here のポップなビデオクリップは、繰り返し放送された。 これらの事も影響してか、アルバムのセールスは好調となった。

 アルバムリリースの直後、彼等は再びヨーロッパに渡り、U2のビッグライブイベント The Longest Day で、Ramones等と共に前座に参加したり、ベルギーの有名な2大ロックフェスティバル Rock TorhoutとRock Werchterに参加。 その他にもアイルランドやイギリスなどで公演を行った。 その後も休む暇なくアメリカに戻り、Reconstruction Tourの第一部を8月一杯まで敢行。 1ヶ月の休みの後、再びヨーロッパに渡りツアーを再開し、10月一杯までの間ヨーロッパを巡った。 その後も直ぐアメリカに戻り、12月までのツアーを再開している。 こうした努力により、R.E.M.の人気は更に上昇。 翌年にはスタジアム級のバンドへと成長する。

 

1986

第一次変革期

 前ツアーの前座を務めた、The MinutemenのD. Boonが、前の年の12月に交通事故により、たった27歳で亡くなった。 R.E.M.は、彼への追悼ライブをAthensの40 Watt Clubで行っている。 この年の前半のライブは、この一回のみで、この後すぐに新作の制作に取り掛かっている。

 セールスはともかくとして、前作 Fables Of The Reconstruction は、出来の良い作品とは言えなかった。 結果、前作のプロデューサーのJoe BoydはR.E.M.を離れ、通算4作目となるアルバム Lifes Rich Pageant は、Don Gehmanがプロデューサーとして参加することとなった。 同じプロデューサーで何作も続けてアルバム制作を進めることの多いR.E.M.だが、このときは違っていた。

 初期の頃、パワフルなドラムをベースにしたロックサウンドに否定的だったR.E.M.だが、今回はこれまでとは違い、ダイナミックなサウンド作りをしたいと考えていた。 これまでのR.E.M.といえば、Michael Stipeのマーマーヴォイスに、ガチャガチャと金属音にも似た細いギター、激しすぎないドラムというのが特徴であった。 今作では、アルバム全体に足踏みオルガンが使われていたため、温もりのある柔らかいクッションがサウンド全体に敷かれてはいたが、ギターは重く厚みを増し、ドラムも激しくなり、なによりヴォーカルから歌詞を聴き取れるように変化したことで、明らかにこれまでのR.E.M.とは違う音へと変革していた。 この変化は、アルバムの最初の5秒間だけ再生しても解る程で、スタジアム級の会場で演奏しても、十分耐えれるパワーを持っていた。

 

 聴き取れるような歌い方になったことと共に、これまでの聴き取れたとしても意味がよく解らなかった歌詞の内容が、ある程度メッセージ性を持ったものに変化してきた。 その内容は、政治や環境問題など、社会へのメッセージが込められたものが多く、John Lennonのように直接的ではない、彼等らしい遠まわしな表現で歌われていた。 以降の作品からは、彼等の社会への関心が垣間見えるようになり、常に何らかの形で、社会へのメッセージを含む曲が作られるようになる。

 このアルバムのもう1つの特徴は、古い曲のリメイクが多く収録されていることである。 Just A Touch は、デビュー当時から演奏されていた曲で、このアルバムの中でも最も激しくダイナミックな曲に生まれ変わって収録されている。 What If We Give It Away? は、Get On There Way という曲名で、デビュー当時演奏されていた曲。 この曲も、当時のものとは全く別のものに生まれ変わっていた。 更に、Fall On MeHyena は、前ツアー中に既に作られ、演奏していた曲で、Fall On Me はサビの部分以外の歌詞が全て書き換えられている。 更に古い曲として、The Cliqueの1969年のアルバム The Clique に収録されていた Superman のカバーも収録されている。 Superman はR.E.M.で初めてアルバムにカバー曲を収録したもので、Mike Millsが初めてリードヴォーカルを務めた曲でもあった。 また、この曲のイントロには、映画ゴジラのワンシーンの音が収録されている。

 このアルバムのレコーディング時に作られ、リリースされなかった Bad Day (この頃は PSA という曲名になっていた)は、2003年のベストアルバム In Time: The Best Of R.E.M. 1988-2003 のために、古い曲のリメイクとして復活することになる。 当時のバージョンは、I Feel Fine: The Best Of I.R.S. Years 1982-1987 のボーナスディスクにも収録される。

 

 アルバムのリリースは、7月。 これまでのR.E.M.は、アルバムリリースの前からライブ活動を始め、そのままライブツアーというハードスケジュールをこなして来た。 しかし、この年は7月のアルバムリリースまでライブを行わないどころか、このアルバムのツアー Pageantry Tour は9月から開始され、年内には終了している。 これまでのR.E.M.のツアーの中では、最も短いものになり、来日はおろか、ヨーロッパ公演も行わず、北米のみを廻るツアーになった。 期間は短かったものの、Pageantry Tour は3ヶ月間で全64公演という極めて密度の濃いスケジュールをこなしていた。

 

1987

B面集リリース

 Peter Buckは子供の頃から、熱心なレコードコレクターだった。 そのため、US版とUK版でジャケットのデザインを変えたり、B面曲を変えたりと、コレクターの喜ぶ工夫をしてきた。 結果、ライブバージョンを除いても、かなりの数のアルバム未収録曲が溜まっていた。 そこで、裏ベスト的なアルバムとして、B面曲を集めたコンピレーションアルバム Dead Letter Office の制作を決定する。 このアルバムの制作はPeter Buckが先頭に立って行い、LPのインナースリーヴには、Peter Buckによる曲解説と、彼自身のサインを印刷された。 CDには、Chronic Town が丸ごと収録され、初のCD化がなされた。

 Dead Letter Office がB面集なのに対して、シングル曲を集めたA面集のベスト版も同時にリリースされた。 しかし、これはアルバムでは無く、R.E.M.初のビデオクリップ集としてリリースされ、これまでに作られた Wolves, Lower 以外の全てのビデオクリップと、Reckoning 頃に作られた映像作品 Left Of Reckoning が収録された。

 

No.5。5枚目のオリジナルアルバム Document

 Dead Letter Office をリリースしていた裏では、フルアルバムとしては5枚目となる Document の制作が始まっていた。 前作 Lifes Rich Pageant は、作品としての出来は良く、セールス的にも申し分無い結果を残していた。 しかし、プロデューサーDon Gehmanは多忙のため続投はせず、今回のアルバム制作からは外れることになった。 後に、Gehmanはこのことを「人生最大の過ちだった」と語っている。 Gehmanは、代わりにScott Littを紹介した。 Scott Littは、R.E.M.の初期のプロデューサーであるMitch Easterの自身のバンドLet's Activeでミキサーとして参加しており、R.E.M.とは近い位置に居た人物である。 Scott Littは、この後6作品をプロデュースし、R.E.M.黄金期とも言える時代を、支えることになる。

 Document は前作 Lifes Rich Pageant よりも更に重厚感のあるサウンドへと進化し、 Lifes Rich Pageant にはまだ残っていた、初期の泥臭い雰囲気は姿を消した。 スタジアム級の会場でのライブにも耐えられるパワフルな曲が大半を占め、R.E.M.の80年代の代表曲である Finest WorksongThe One I LoveIt's The End Of The World As We Know It (And I Feel Fine) を世に送り出した。 また、前作から聞こえ始めたMichael Stipeの歌詞が、更にはっきりと聞こえるようになり、その歌詞の中には更に政治へのメッセージが込められるようになった。 1stシングル The One I Love は、大ヒットとなり、日本でも初めてシングルがリリースされた。

 アルバムの発売は9月。 これを皮切りに、R.E.M.は Work Tour とタイトル付けされたツアーに出掛ける。 Work Tour は前回の Pageantry Tour 同様、11月一杯までの3ヶ月間行われた。 相変わらずハードなスケジュールでツアーは行われたが、前回よりは若干回数が少なくなり、 Work Tour は、R.E.M.デビュー後最も小規模なツアーとなった。 前回は回数は多かったものの、北米のみを回るツアーで、ワールドツアーではなかった。 しかし、今回は4公演のみ、ヨーロッパでも演奏をし、2年振りのファンをおおいに湧かせた。

 また、今回のツアーは、前半は10,000 Maniacsを、後半はThe dB'sを前座に迎えて行われた。 Michael Stipeは、この年の春にリリースされた10,000 Maniacsのアルバム In My Tribe にバックボーカルとして参加していた。 ツアー中は、10,000 ManiacsのNatalie Merchantは、R.E.M.のステージへ、Michael Stipeは、10,000 Maniacsのステージへ、毎晩のようにそれぞれが飛び入り参加していた。 ツアーの移動自体も、Michael Stipeのプライベートバスに2人で同乗して移動していたことから、二人の間には恋愛の噂が流れた。 事の真相は謎のままだが、Michael Stipeは1993年にも10,000 Maniacsとライブで共演し、1995年にMTV Music Video Awardsでパフォーマンスを行った際には、Natalieがプレゼンターとしてステージに立ち、「大切な友人」としてR.E.M.を紹介している。

 一方、後半の前座を務めた、R.E.M.デビュー前からの付き合いのあるThe dB'sだが、この頃はメンバーの入れ替わりが激しく、活動は難航していた。 そして、翌年にはThe dB'sは解散してしまう。 初期のThe dB'sの中心人物だったChris Steamyは、既に数年前に脱退しており、もう一人の中心人物であったPeter Holsappleが、リーダーとして活動していた。 Peter Holsappleは、The dB's解散後暫くは、R.E.M.と行動を共にするが、 Out Of Time の曲づくりに参加したかどうかという契約上の金銭問題が起こり、それをきっかけにR.E.M.との繋がりは完全に消えてしまう。

 そんな活動の中、Document は1987年が終わる頃にはゴールドディスクに輝き、翌年の1月にはプラチナディスクを獲得している。 セールス、人気共に安定してきたR.E.M.は、翌年には遂にメジャーレーベルへと移籍する。 Document は、I.R.S.最後のオリジナルアルバムとなった。 そして、R.E.M.はこの年の12月には、世界で最もメジャーな音楽雑誌の1つである、RollingStoneの表紙を飾り、「America's Best Rock & Roll Band」として扱われた。

 

1988

メジャーレーベルWarner Bros.Recordsへ移籍

 1988年。 着々とメジャーなアーティストへと成長していたR.E.M.は、遂にメジャーレーベルへの移籍を考え始めた。 これまでインティーズレーベルで活躍してきたR.E.M.だったが、移籍にあたってWarner Bros.が提示してきた契約金は、なんと史上最高額となる、US$10,000,000という巨額のものであった。 古巣、I.R.S.にとって、R.E.M.は最も重要なバンドの1つになっており、移籍を引き止めるためにあらゆる手を尽くしたが、Warner Bros.の契約内容は、版権、印税など契約金以外の部分でもI.R.S.の努力で追いつけるものでは無かった。

 しかし、I.R.S.を蹴ることは、R.E.M.史上最も苦しいものになった。 R.E.M.がアーティスト性をここまで存分に引き出せたのは、I.R.S.が、流行のポップミュージックの波から守ってくれたからであり、R.E.M.がここまで成長できたのは、I.R.S.のおかげ以外の何物でも無かった。 しかし、海外での活躍などを視野に入れて考えると、メジャーへの移籍は必要不可欠であったのも事実で、当時のR.E.M.の人気を考えると、当たり前の決断でもあった。 しかも、Warner Bors. は、R.E.M.とは近い位置に居た The B-52'sやThe Replacementも在籍しており、ある程度アーティストの意向を汲み取ってくれるという、レーベルとしての在り方も、R.E.M.には向いていた。

 結果、R.E.M.はI.R.S.を離れ、Warner Bros. Recordsと契約を交わすことになった。

 

新作 Green 制作

 この年は、R.E.M.史上初めて、ツアーを行わない年になった。 ライブ自体も、新作のレコーディングが本格的に始まる前に、Athensの40watt Clubで行われた2回だけで、演奏という点では最も活動の少ない年となった。 換わりに、初のメジャーレーベル作品の制作に精力を注いでおり、7月の終わり頃から9月の始めにかけて、集中的にアルバム Green のレコーディングに取り組んだ。

 プロデューサーは、再びScott Littが担当し、ニューヨーク州のWoodstockにあるBearsville Studioでレコーディングが行われた。 この年の始めに、AthensのJohn Keane's Studioでデモセッションを行っていたが、基本的にはBearsville Studioで、一から作られた。 John Keane's Studioでは、アルバムに収録される有力候補だった Great Big や、 Work Tour の頃から頻繁に演奏していた新曲 Title もレコーディングしていたが、これらの曲は外された。 Work Tour では、他にも新曲として Pop Song '89Orange Crush が既に演奏されていたが、これらの曲は Green に収録されることとなった。

 アルバム Green は、そのタイトルや、アルバムアートワークに使われた、葉っぱや木目、地球の写真などから、環境問題への関心が伺い知れる。 また、1曲目に収録されている、アップテンポなポップソング Pop Song '89 の中で「天気の話しをしようか?政治の話しをしようか?」と歌い、これまで以上の政治への関心も印象づけた。 アルバムのリリース自体、大統領選挙の投票日に設定され、アルバムのプロモーションには「Two Things To Do November 8(11月8日にすべき2つのこと)」というキャッチコピーとともに、投票箱と Green のアルバムジャケットが写し出されたものが使われていた。

 もう1つ、ジャケットに現れた変化があった。 R.E.M.のアルバムでは初めて、歌詞が印刷されたのだ。 日本版には、前作 Document から聴き取りにより、推測された歌詞が掲載されていたが、オリジナル盤に歌詞が掲載されるのは初めてである。 掲載されたのは World Leader Pretend 1曲の歌詞だが、初期の頃は、頑に歌詞を掲載するのを拒んでいたR.E.M.には、大きな変化であった。

 

  Green の曲は、 Pop Song '89 や、 Get UpOrange Crush のような、ロック色の強いものと、 You Are The Everything や、 HairshirtThe Wrong Child のようなアコースティック色のものに分かれていた。 アルバム全体ではロックの印象のほうが強く出ているが、それも前作 Document のようなストイックさ(ベトナム戦争で使われた枯れ葉剤のことを歌った Orange Crush はストイックな内容の賛歌だが、この曲もオレンジジュースのことを歌ったという軽い一面も持っている)よりは、 Stand のようなおバカソングのほうが目立っているように思える。 You Are The Everything のような美しいアコースティックバラードが作られたのもこのアルバムが初めてで、一時期アルバム全体をアコースティック一色にしようかという案も出たようだ。 実際、ロック色の強い Pop Song '89 のシングルB面用に、同じ曲のアコースティックバージョンが収録された。 「全編アコースティック」というのは、大成功を収める次のアルバム Out Of Time で実現することになる。 アルバムジャケットに貼られた曲目リストには、10曲分の曲名しか書かれていない。 しかし、アルバムの最後の11曲目には、曲名が付けられていない無名の曲が収録されている。 この無名の曲は、不自然なリズムのドラムが特徴的な曲で、あまりにおかしいリズムのためにBill Berryはこのリズムをまともに叩くことができず、この曲はPeter Buckがドラムを叩いている。 この曲には「This song is here to keep you strong.(この曲は君を強く保つためにある)」という、とても心強い歌詞が込められていた。 この内容は、1992年のバラード Everybody Hurts に引き継がれる。

 Green の制作に多くの時間を裂いたとは言え、ツアーをやらなかったことで、メンバーにはある程度の時間が出来上がった。 そんな時間も、メンバーはそれぞれ積極的にサイドワークに取り組んでいた。 Michael Stipeは、Athens Music FestivalにIndigo Girlsと共に参加し、ヘッドライナーを務めた他、Michaelの妹Lynda StipeのバンドHetch Hetchyのアルバムのプロデュースを務めた。 Indigo Girlsのファーストアルバムにも参加し、バックボーカルを務めている。 Peter Buckは、以前にも参加していたFleshtonesのKieth Strengのバンド Full Time Menのアルバムにギターで参加したり、Charlie Pickett & MC3の作品のプロデュースを手がけ、ギターも演奏。 更に、Run Westy Runのアルバムの共同プロデュースを務めている。 また、1987年頃から親密になっていたRobyn Htchcockのアルバムの数曲に参加し、12弦ギターを演奏した他、ステージにも何度か参加した。 Mike Millsは、Billy Jamesのミニアルバムをプロデュースし、Bill BerryはMichelle Maloneのデビューアルバムでドラムを叩き、R.E.M.のメンバー初となるソロ作品を13111という名義でリリースした。

I.R.S.から、初のベスト盤がリリース

 R.E.M.が、新しいレーベルで Green を制作していた頃、古巣I.R.S.は、このR.E.M.を取り巻く暖まった空気を逃すまいと、I.R.S.時代のベストアルバムのリリースを決める。 メンバーの意図しないものが作られるのを心配したMichael Stipeは、このベストアルバム Eponymous のジャケットアートワークと、選曲の一部で力を貸す事になった。 ジャケットの裏面には、若い頃のMichael Stipeの顔写真が使われている。

Eponymous は、基本的には年代順にシングル曲を並べた内容であったが、 Radio Free Europe は、Hib-Toneからのデビューシングルのバージョンが収録されたり、 Gardening At Night はボーカルが聴き取り易い Different Vocal Mix という別バージョンが収録された。 また、デビュー当時にライブで演奏されていた曲で、1986年に映画 Made In Heaven のサウンドトラックに収録された Romance が収録された。 更に、 Finest Worksong はホーンの音をミックスした、Mutual Drum Horn Mix が収録された。 結果、12曲中4曲がアルバム未収録音源ということで、これまでのアルバムを全て持っているファンにも嬉しい内容となった。

 このベスト盤のリリースに併せ、 Murmur の時には無かった Talk About The Passion のビデオクリップも作られた。 ビデオクリップは、貧困問題を扱った極めて政治的な内容で、 Murmur の時代ではなく、 Green の時代のR.E.M.の作品として仕上がっている。

  Eponymous は、 Green がリリースされる約1ヶ月前の10月にリリースされ、ビルボードのチャートで最高44位を記録した。

 

1989

大規模ワールドツアー Green World Tour

 1988年をレコーディングに費やしたR.E.M.は、1989年、これまでに無い大規模なワールドツアー Green World Tour に出掛ける。 ツアーは1月から始まり、夏まで殆ど休まず続け、7月の中盤から8月一杯まで一旦休憩し、9月から11月まで続く長いものとなった。 今回のツアーでは、2回目となる来日公演が実現している。 ツアーの初日と2日目の2日間は、東京のMZA有明でライブを行った。 意外にも、ツアーは日本から始まっていた。

 来日公演の後は、初となるオセアニア公演となり、ニュージーランドから、オーストラリアを巡るツアーとなった。 そして、その頃には Green はプラチナディスクに輝くことになり、早くもI.R.S.時代最高のセールスを記録していた、前作 Document に追いついた。 その後は一度北米に戻り、5月の頭までの間、かなり密度の濃いスケジュールでツアーを続けている。 そして、殆ど休む間も無く今度はヨーロッパへ渡り、ドイツ、オランダ、イギリス、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スイス、イタリア、アイルランド、ベルギーを回るハードなツアーをこなし、7月上旬には Green World Tour 前半が終了する。

 

 9月の上旬から再び始まったツアーは北米ツアーで、またしても過密なスケジュールで巡る過酷なものとなった。 しかし、メンバーはエネルギーに満ちあふれ、公演のキャンセルもなく順調にツアーを進めていた。 そして、ツアー最終4公演と、ツアー終了直後に行われたL.E.A.F. Benefitのチャリティーコンサートが、映像作品 Tourfilm のために撮影、収録されていた。 L.E.A.F. Benefitでは、 Murmur のアルバムの曲をアルバムと同じ曲順で演奏し、その後 Green のアルバムを同じ曲順で演奏するという、R.E.M.史上最も珍しいセットリストが組まれた。

 過酷なツアーではあったものの、ツアーは大成功であった。 毎晩違うセットをこなし、新曲 LowBelong を生み出し、 Hugo Largoの Harpers や、Televisionの See No Evil 、The Velvet Underbroundの After Hours 、Mission Of Burmaの Academy Fight Song など、初期の頃と変わらずカバー曲を多数演奏し、コアなファンも楽しませた。 ツアーには、このとき解散していたThe dB'sのリーダー Peter Holsapple がキーボードで参加しており、 World Leader PretendPerfect Circle が、彼のピアノの音によって全く新しく美しいバージョンとして演奏されていた。

 ツアーが終了すると、あまりに長い間顔を合わせ、過酷なツアーをこなして来たR.E.M.は、お互いの顔を見るのも嫌な程になっており、この後メンバーそれぞれが、別行動を取ることになる。